一生宣言!!
一昨日、田舎へ帰ってきました。
法事で、ですが。
2週間前に帰ったばっかりで、その前は帰った日から1週間前でした。
最近頻繁に行き来していたので特に懐かしいとかはないのですけれど。
6月の下旬あたり、祖母がなくなってそれからの話です。
だからとは言わないですが、ちょっとだけ死について考えるというか、
感じる機会がココしばらく多かったように思います。
ちょっと重い話になっていくかと思いますが。
昨日の小説の中での死(ワタシのHPでやったものです)に引き続き、
今日は現実世界でのことについてやってみようかと思います。
まだまだ小さかった頃、小学校に上がる前は単純に考えていました。
死んだらそれで終わりなんて考え方はまずなかったし、
死後の世界(つまり天国)に行って永久にハッピー!!
がちびっ子達の基本だったのではないかなと。
でも、初めて死に恐怖を抱いた日のことはしっかり覚えていたり。
夕食の時に、父から聞いたこういう話です。
「なぁ、アルマゲドンって知ってるか?
地球にな、恐怖の大王が(巨大隕石だったっけ?)。。。」
ワタシにとってはそういう風に聞こえていました。
おそらく、某有名映画のことを父は言ったのでしょうが
ワタシ自身がそれを知ったのは後の話、そこにたどり着くまでは割と真に受けてました。
いや~、ワタシも青かったな。
(青いという表現を友達の前で使ったところ、は?と返されました;;)
それからしばらくして、お盆に父方の実家で伯父にこういう話を聞きました。
それは何故かワタシがなんで人は死ぬのかとか言う、
大人にとっても聞かれたら困ってしまうような質問をしてしまった時です。
「だって、人は生まれてくるやろ?
もし人が生まれてくるばっかりやったら、日本は人だらけになるやん。
だから生まれてくるんと同じくらい、人は死ななあかんねん。
そう神様が決めはったんやからしゃーないやろう。
誰かが死んだから、○○は生まれてきたんやで」
なぜだかものすごく頭の中に残る会話だったと思います。
ちなみにこのあと、雷で死ぬ人の話を延々とやってたり・・・。
電気を感じたことあるか?→コンセントのプラグに指突っ込んで
びりっと来たことやったらある。
とかとか。
アルマゲドンの次に死の恐怖に陥ったのは、ノストラダムスでした。
当時小学二年生。7月。ありえないと分かっていながらに、恐怖の大王が怖かった;;
コレは8月、夏休みにしぜ~んと消えていったつかの間の思いでしたが。
知ったこと自体、遅かった人なので。
で、最大の恐怖を感じたのは中学年か高学年ごろでした。
いまだに死に恐怖を抱いていた幼稚な津々はうらさん。
当時のきっかけとなったのはとあるテレビ番組だったかな。
隕石が実際に地球にぶつかる可能性があるだとか、
十数年後には何パーセントの確率で隕石がぶつかって人類は滅びるとか
そういう類の特集を見たとき、ビビビっっっと何かを覚えてしまったのでした。
ココまで来ると分かるのですが、
ワタシの死の恐怖って、全く関係のない第三者によってもたらされるんですよね。
つまり自然死とか、病死に関する恐怖が表立ってでてこないんです。
夜とか、考える時はつい考えちゃうんですけど、
そういうときのその場しのぎがワタシの場合、
「今はその時じゃないんやから、大丈夫」
で、新たな死の恐怖へと陥っていく時は決まって
「でもいつかは来てしまうんやなぁ・・・」
だったりするんですけど。
とりあえず、今じゃないことに安心して終わるというか、自分を丸め込む傾向にあるらしいですよ。
だからきっと、未来じゃないほんの目に見えた先のこととして死が近づいた時に
とてつもない恐怖を覚えちゃうっぽいです。
さて、こんな感じで終えてみましょうか。
なんというか、肝心のところには全く触れてないですね。
ただワタシの今までにおける死の恐怖について語ってるだけだよ・・・。
でも、ココ10年でワタシの親戚のある一家(ワタシの母方の実家)
は合計で4つのお葬式を出しちゃってるらしいです。
ワタシも後半の6年間であったお葬式、3つとも覚えてるし。
田舎なんですけど、独特のややこしいお葬式のしきたりについては
完璧にマスターしたという話です。
でも、当分はないと思うなぁ。
そうであってほしいのかもしれないけど。
ま、ひぃおじいちゃんから始まって、4人。
死にそうな人はいませんから。
とりあえず、ちゃんとしたところまでかけるためには、
ワタシもしっかりと間をおきたいと思います。
いつになく長いブログでした。
法事で、ですが。
2週間前に帰ったばっかりで、その前は帰った日から1週間前でした。
最近頻繁に行き来していたので特に懐かしいとかはないのですけれど。
6月の下旬あたり、祖母がなくなってそれからの話です。
だからとは言わないですが、ちょっとだけ死について考えるというか、
感じる機会がココしばらく多かったように思います。
ちょっと重い話になっていくかと思いますが。
昨日の小説の中での死(ワタシのHPでやったものです)に引き続き、
今日は現実世界でのことについてやってみようかと思います。
まだまだ小さかった頃、小学校に上がる前は単純に考えていました。
死んだらそれで終わりなんて考え方はまずなかったし、
死後の世界(つまり天国)に行って永久にハッピー!!
がちびっ子達の基本だったのではないかなと。
でも、初めて死に恐怖を抱いた日のことはしっかり覚えていたり。
夕食の時に、父から聞いたこういう話です。
「なぁ、アルマゲドンって知ってるか?
地球にな、恐怖の大王が(巨大隕石だったっけ?)。。。」
ワタシにとってはそういう風に聞こえていました。
おそらく、某有名映画のことを父は言ったのでしょうが
ワタシ自身がそれを知ったのは後の話、そこにたどり着くまでは割と真に受けてました。
いや~、ワタシも青かったな。
(青いという表現を友達の前で使ったところ、は?と返されました;;)
それからしばらくして、お盆に父方の実家で伯父にこういう話を聞きました。
それは何故かワタシがなんで人は死ぬのかとか言う、
大人にとっても聞かれたら困ってしまうような質問をしてしまった時です。
「だって、人は生まれてくるやろ?
もし人が生まれてくるばっかりやったら、日本は人だらけになるやん。
だから生まれてくるんと同じくらい、人は死ななあかんねん。
そう神様が決めはったんやからしゃーないやろう。
誰かが死んだから、○○は生まれてきたんやで」
なぜだかものすごく頭の中に残る会話だったと思います。
ちなみにこのあと、雷で死ぬ人の話を延々とやってたり・・・。
電気を感じたことあるか?→コンセントのプラグに指突っ込んで
びりっと来たことやったらある。
とかとか。
アルマゲドンの次に死の恐怖に陥ったのは、ノストラダムスでした。
当時小学二年生。7月。ありえないと分かっていながらに、恐怖の大王が怖かった;;
コレは8月、夏休みにしぜ~んと消えていったつかの間の思いでしたが。
知ったこと自体、遅かった人なので。
で、最大の恐怖を感じたのは中学年か高学年ごろでした。
いまだに死に恐怖を抱いていた幼稚な津々はうらさん。
当時のきっかけとなったのはとあるテレビ番組だったかな。
隕石が実際に地球にぶつかる可能性があるだとか、
十数年後には何パーセントの確率で隕石がぶつかって人類は滅びるとか
そういう類の特集を見たとき、ビビビっっっと何かを覚えてしまったのでした。
ココまで来ると分かるのですが、
ワタシの死の恐怖って、全く関係のない第三者によってもたらされるんですよね。
つまり自然死とか、病死に関する恐怖が表立ってでてこないんです。
夜とか、考える時はつい考えちゃうんですけど、
そういうときのその場しのぎがワタシの場合、
「今はその時じゃないんやから、大丈夫」
で、新たな死の恐怖へと陥っていく時は決まって
「でもいつかは来てしまうんやなぁ・・・」
だったりするんですけど。
とりあえず、今じゃないことに安心して終わるというか、自分を丸め込む傾向にあるらしいですよ。
だからきっと、未来じゃないほんの目に見えた先のこととして死が近づいた時に
とてつもない恐怖を覚えちゃうっぽいです。
さて、こんな感じで終えてみましょうか。
なんというか、肝心のところには全く触れてないですね。
ただワタシの今までにおける死の恐怖について語ってるだけだよ・・・。
でも、ココ10年でワタシの親戚のある一家(ワタシの母方の実家)
は合計で4つのお葬式を出しちゃってるらしいです。
ワタシも後半の6年間であったお葬式、3つとも覚えてるし。
田舎なんですけど、独特のややこしいお葬式のしきたりについては
完璧にマスターしたという話です。
でも、当分はないと思うなぁ。
そうであってほしいのかもしれないけど。
ま、ひぃおじいちゃんから始まって、4人。
死にそうな人はいませんから。
とりあえず、ちゃんとしたところまでかけるためには、
ワタシもしっかりと間をおきたいと思います。
いつになく長いブログでした。